ろう者は手話ソングを嫌います

 手話ソングについてみなさんはどのような印象をいだいていますか?あなたが聴者ならばきっと好印象を抱くと思いますし、その好印象を足場として聴者による手話ソングが福祉イメージと重なり各地に広まっています。しかし、ろう者の中には不愉快な気持ちを持つ人は非常に多いのです。その理由をこれからご紹介いたします。

言語的側面
 かつてアメリカのろうの女性活動家M.Jビアンヌ女史が聴者による手話ソングを直前に中止させた事があります。理由は「音楽は翻訳できるものではない。私達の言語が舞台の上で歪められるのをみるのは我慢できない。これはろう者に対する、聴者の蹂躙(じゅうりん:踏みにじる)、言語の冒涜でしかない。」との事です。確かに歌詞の内容は手話に変換出来ても音楽を手話に変換は出来ません。また、手話と口話では文法が異なります。そのために手話の単語を使って口話に当てはめた手話ソングを見てビアンヌ女史は自分達が舐められていると感じたのでしょう。これは英語で例えるならば、「昨日、私は紅茶を飲んだ」を単語そのままに「Yesterday I tea drink」と言っているのと同じです。英語を母語としている人から見たら「単語は英語、時制も無くめちゃくちゃ、文の並びは日本語、これは英語?日本語?それとも別の言葉???こいつら何を言ってるんだ???」と違和感を持つことでしょう。それと同じでろう者が聴者の日本語の並びのまま、単に手話単語を並べただけの日本語対応手話(シムコム)を見て当然違和感を感じるのです。
参考文献 藤堂悠貴子(舞踏家) 日本手話と日本語対応手話

機能的側面
 ろう者は聴覚が不自由です。しかし聴者は耳が聞こえます。音楽のリズムに手話を乗せる事が出来ます。タイミング良くピタリピタリと手話を乗せる事が出来ます。理由は耳が聞こえるからです。耳から入った音楽情報がフラグ(旗)となり、次の手話を繰り出せるのです。しかし、ろう者にはそれが不可能です。この客観的な論述により、現在の10人ならば10人、20人ならば20人がピタリピタリとタイミング良く全員が同じ動きをするラジオ体操のような手話ソングは聴者だからこそ可能であり、聴者の物と断定できます。

ここまでのまとめとして
 ろう者の立場で手話ソングを見る場合ではイイカゲンであいまいな言葉を使われるので違和感を感じると同時に、手話ソングを見る聴者が「これが手話の歌だ、これが手話なんだ!」と脳みそにイメージを打ち込まれるので、正しい手話は伝わらずにいつまでも誤解をされ続け手話ソングが存在を続けるかぎり平行線をたどる事となり。機能的側面として手話ソングを楽しむ事自体が不可能、言語的側面から何を言っているのか判らないの二重の難を背負う手話ソングはろう者が受け入れる事自体無理があるのです。

日本語対応手話(シムコム)は不要か
 シムコムは不要では無く、むしろ必要な物です。私たちが外国語を学ぶ時に単語を調べて該当する単語に日本語を書いて学びました。これが英語ならば英文和訳ならばいつのまにか英文の下には「英語対応日本語」が出来上がった事でしょう。言葉を習得する目的の為の主な一つの手段としてシムコムは必要です。

手話ソングは不必要か
 今のような聴こえる事が可能で手話を繰り出せる『ラジオ体操型』の手話ソングは即刻止めなければなりません。しかし、私が『型』としたのは社会科学、人文科学の発達と人々の意識が時間と共に当然変わり他の型も出現する為です。絵画でも歴史と共に「主義」や「調」や「派」と言った流れが形成されました。
 手話ソングは日本史で例えると火を使い文化がやっと始まった縄文時代です。これからはろう者と聴者が共に築く洗練された芸術まで昇華させなければなりません。その意味を込めて『型』として区別をしました。